徳川家康公遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず
不自由を常と思へば不足なし
心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りを敵と思へ
勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る
己を責めて人を責むるな
及ばざるは過ぎたるに勝れり
徳川家康の遺訓として伝わっている言葉です。
耐え忍んだ末に天下統一を果たした家康の人生そのものを物語っているといえます。
駿府城公園に「東照公御遺訓」として碑が建っています。
不自由を常と思えば
家康は、6歳で織田家の、8歳のときから今川家の人質として幼少期を過ごしました。
堪忍は長久の基
我慢は、無事で長く久しく平安に生きる基本であるという意味です。
19歳のころ今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、信長の配下に加わりましたが、信長の命令で妻子を失いました。
その信長が本能寺の変で没した後、秀吉にしたがいましたが、秀吉からは、関東移封(国替え)を命じられるなど、苦労が絶えない人生でした。
負くる事を知らざれば
家康は、負け戦を幾度か経験しています。
31歳のとき、三方ヶ原の戦いで、武田信玄に敗れ、初めて負け戦を経験しました。
命からがら浜松城に逃げ帰った家康は無理な戦いを挑んだことに深く反省をします。二度と同じ過ちを繰り返さないように自分の情けない姿を絵師に描かせて生涯この絵を座右から離さなかったと言われています。
また、44歳のとき、上田合戦で信濃国衆真田昌幸(真田幸村の父)にも破れています。
己を責めて
敗戦のたびに家来を責めていたのでは誰もついてこなかったことでしょう。
急ぐべからず
やがて秀吉が病没し、59歳の折、関ヶ原合戦で家康は西軍に勝利しましたが、征夷大将軍となり江戸幕府を開いたのは、62歳のときです。
大坂夏の陣での豊臣氏の滅亡を待ってはじめて完全な天下取りとなったのは、74歳のときでした。
及ばざるは過ぎたるに勝れり
武田信玄に及ばず、織田信長に及ばず、豊臣秀吉にも及ばなかった徳川家康は最終的に天下統一を果たし、260年余り続く江戸幕府を築きました。
孔子の言葉に「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という名言があります。
家康はこれらを一歩進めて、及ばない者は過ぎたる者より優れていると言っています。
ちなみに、伊達政宗は「伊達五常訓」として以下の言葉を遺しています。「仁義礼智信」という儒教の徳である五常も過ぎたるは及ばざるがごとしと諫めています。
仁に過ぐれば弱くなる
義に過ぐれば固くなる
礼に過ぐれば諂となる(へつらい)
智に過ぐれば嘘を吐く
信に過ぐれば損をする